【Vol.1】駒野友一選手(前編)

駒野 友一(こまの ゆういち)

駒野 友一(こまの ゆういち)

【ジュビロ磐田所属 DF 背番号:5】

1981年7月25日和歌山県生まれ。
172cm/76Kg
大野JFC-海南市立第三中-サンフレッチェ広島ユースを経て、2000年サンフレッチェ広島に加入。豊富な運動量と正確なクロスを見せる。独特の雰囲気を持ちファン・サポーター、チームメイトも魅了し続ける日本を代表するサイドバック。

代表歴
U-18~U-23日本代表
2001年U-20W杯日本代表/2004年アテネ五輪日本代表
2005年~日本代表/2005年8月3日中国戦A代表デビュー
2006年ドイツW杯日本代表
2007年アジア杯メンバー
2010年南アフリカW杯日本代表

サイドバックのスペシャリストが思い描いた将来像

サイドバックのスペシャリストが思い描いた将来像

「高校サッカーですか?もちろん選手権に憧れはありました。でも僕はプロサッカー選手になることを目標に、クラブチームのユースに進学することを選びました」

そう語ってくれたのは、駒野友一選手。サンフレッチェ広島を経て、現在ジュビロ磐田で活躍。サッカー日本代表として2度のワールドカップも経験しているサイドバックのスペシャリストです。

「とにかくプロのサッカー選手になりたかった。特に実家を離れて寮生活を始めることになった高校時代は、プロ選手になって大好きなサッカーで成功することばかりを考える日々でした」

中学、高校生のみなさんは、「10年後の自分」を想像したことがありますか?そして、それはどんな姿でしょうか?
「プロサッカー選手として活躍」「サッカー部の顧問をする学校の先生」「Jリーグの試合を取材するカメラマン」「サッカー選手をサポートするフィジカル・トレーナー」……。
駒野選手にとってのそれは、今の駒野選手の姿そのものです。

「もちろん辛い時期もありました。大きな怪我もしました。プレーやチームがうまくいかないときもありました。でも、続けてきた。そして日本代表というチャンスをもらって、ワールドカップという大きな舞台にも立てました」

プロサッカー選手・駒野友一が「10年後の自分」になることができた理由──それを知るために、駒野選手のサッカー人生を辿っていきましょう。

飛び級で始めたサッカー

──駒野選手がサッカーを始めたキッカケは何だったのでしょうか?

「小学校2年生のとき。当時の小学校のクラブは、3年生からしか入れなかった。だけど、放課後にサッカーをする僕を見た指導者の方が、“そんなにサッカーが好きなら入れ”と特別に入団を許してくれたんです」

──放課後のサッカーは、遊び感覚だったのでしょうか?

「その時すでに僕の中では、サッカーは遊びじゃなく真剣に取り組むものでした。単純にサッカーをするのが楽しかったです。親は野球をやらせたかったみたいですけどね」

──その時から、まわりから一目置かれるような存在だったんですか?

「そうだったのかもしれませんが、どうでしょうね(笑)。でも僕としては、上手いか下手かよりも、まわりのみんなとサッカーをするのがとにかく楽しかった」

──中学校に上がると当然、部活動はサッカーを選びますよね。初めからレギュラーですか?

「1年生のときはレギュラーではなかったです。2つ上の3年生が抜けてから試合に出るようになりました」

中学校でサイドプレーヤーに転向

中学校でサイドプレーヤーに転向

中学校にあがると、駒野友一の名は少しずつ県内に知れ渡っていきます。そして、駒野選手にとって、重大なある出来事が起きました。
それは、中学校2年生のときに選ばれた「関西選抜」での出来事。
それまではずっとフォワードだった駒野選手。たまたま左サイドハーフが不在だったところ、関西選抜を率いる監督から「左足で蹴れるのはお前しかいない」と指名されます。

──突然のサイドハーフ。今の駒野選手のポディションに繋がる起用法ですが、当時はどんな気持でしたか?

「地元の選抜、県選抜とずっとプレーしてきたフォワードで出たいという気持ちもありました。でも、“これも縁なのかな”と思い切ってプレーすることにしました」

──その結果はどうでしたか?

「そのときの対戦相手が全国の選抜チームだったのですが、中学校に上がってから“両足で蹴れるようになりたい”と練習をしてきたこともあって、プレーが上手くハマりました。サイドでプレーすることが楽しくて、得点まで取ることができた。さらに、その大会の優秀選手にも選ばれたんです」

高校サッカーよりもクラブチームを選んだ理由

高校サッカーよりもクラブチームを選んだ理由

──サイドプレーヤーとして、一気に全国レベルのサッカーで活躍。その後の進路に何か影響を及ぼしたのでしょうか?

「その大会で目をつけてもらったのが、広島ユースのスカウトでした。ほかにもいろいろと誘っていただいたのですが、家庭の事情から寮生活ができる広島を選びました。Jリーグチームの下部組織ということで、環境は抜群によかったですし、トップにあがれば寮費なども減っていく制度などもあった。自分としては、ここで頑張れば夢だったプロのサッカー選手にもなれる、という思いもありましたね」

──その当時は、クラブチームのユースよりも高校サッカーのほうが憧れの対象だったと思います。選手権などへの憧れはなかったんでしょうか?

「それは、ありました(笑)。地元のサッカー強豪校に進学が決まった直後に、広島からの誘いがあって。選手権への憧れからどちらにするか迷いましたね。でも、かかる費用の面とプロへの近い道という面から、一方の思いを捨てることを決心しました」

──プロサッカー選手への最短距離。それはどういった考えからでしょうか?

「Jリーグのトップチームの下ということで、高校1年生からたくさんの刺激をもらえると思いました。トップに登りつめるのは、本当に限られたメンバーだけという環境で、自分にプレッシャーをかけたいというのもありました」


とにかくサッカー漬けだった広島ユース時代の3年間。クラブチームならではと言える、白黒がはっきりした制度のなか、押しつぶされることなく成長を続けていった駒野選手。
ついに、夢だったプロの舞台に立ち、さらには日本代表にまで選ばれるようになる。
駒野選手が思うその秘訣とは?そして高校生のみんなに向けた応援メッセージとは?
(後編に続く)

企画・株式会社イースリー 文・遠藤由次郎 写真・末吉保乃香

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