【Vol.13】堺ブレイザーズ広報・西野祐司 さん(前編)

西野 祐司(にしの ゆうじ)

西野 祐司(にしの ゆうじ)

【堺ブレイザーズ広報】

株式会社ブレイザーズスポーツクラブ、堺ブレイザーズ広報、兼、堺ジュニアブレイザーズ監督。大阪府高槻市出身。小、中学生時代はサッカーに打ち込み、高校からバレーボールを始める。大阪体育大学では保健体育の教員免許を取得し、関西大学バレーボール連盟の委員長も務めた。卒業後の2005年4月、ブレイザーズスポーツクラブに入社し、堺ブレイザーズのマネージャーとして日本一を経験。09年から現職。

コートの中は社会の縮図。

コートの中は社会の縮図。

昼間はスーツ姿でチームの運営や広報活動に従事し、夕方からはジャージに着替えて中学生のバレーボールの指導に汗を流す。そんな濃密な毎日を過ごしている人がいます。

「スケジュール管理が難しい部分もありますが、やりたかった仕事ができているというのは本当に幸せだなと思います。コートの中は社会の縮図なので、中学生の指導をする上では、コート内での立ち振る舞いやマナーを学んでもらうことが一番大事だと思っています。その土壌があってこそ、技術が生きると思いますから」

そう話すのは、バレーボールV・プレミアリーグ男子の強豪、堺ブレイザーズの広報兼堺ジュニアブレイザーズ監督を務める西野祐司さんです。今ではトップリーグのチームの運営に携わる西野さんですが、プレーヤーだった学生時代は、思い通りにいかないことの連続だったと振り返ります。

「母がバレーをしていたので、小さい頃から練習についていくうちに、自分もバレーをやりたいと思うようになりました。でも僕の地元の高槻市は男子バレー不毛の地で、小学校にも中学校にもバレー部がなく、高校に入ってやっと、バレー部に出会えたんです。バレーボール経験のある指導者はいなくて、練習試合を申し込んでも断られるような弱小チームでしたが、徐々に試合に勝てるようになったことが楽しかったですね」

抜群の行動力で部員の勧誘に奔走

抜群の行動力で部員の勧誘に奔走

上級生が引退すると、西野さんはキャプテンに就任しました。ところが、先輩が引退したことで部員が5人になってしまい、そのままでは試合に出場できません。そこで、西野さんたちは新入部員を集めるために奔走しました。

「新入生歓迎会で印象づけることはもちろん、1年生の担任の先生方にお願いをして、ショートホームルームの中で時間をとってもらって勧誘に回ったり、思いつく限りのことを行動に移しました。その甲斐があって、新入生が数人入ってきてくれました。これでやっと試合に出場できる、と喜んだんですが…そこで僕のやる気スイッチがさらに入ってしまい、周りが見えていなかったんでしょうね。厳しくしすぎて温度差ができてしまい、せっかく入った1年生が退部してしまいました」

ショックな出来事でしたが、それでも試合に出たいという思いは変わりませんでした。そこで、他の部活の生徒に応援を頼むことに。水泳部は夏でシーズンが終わるため、その後、頼み込んでバレー部に入ってもらい、なんとか試合に出場することができました。

「そんな状況だったんですが、大会に出るたびに必ず1勝はすることができて、その時に味わった喜びは、それまでにない格別のものでした。全国の舞台は遠く、府の大会でもベスト8や16を見込んでできるようなチームではありませんでしたが、モチベーションだけは高かったですね」

勝利の喜びとともにますますバレーにのめりこんだ西野さんは、大阪体育大学に進学し、バレーを続けます。その頃の西野さんには、保健体育の教員、そしてバレーの指導者になるという夢がありました。

「僕自身、小中学校でバレーをやりたくてもできない環境だったということが理由の一つです。それに、高校の顧問の先生は、バレー経験がなかったけれど、僕らに温かく付き合ってくれた。そういう姿を見て、教員になりたいと思うようになりました」

選手から、サポートする立場に…涙の決断

選手から、サポートする立場に…涙の決断

大学のバレー部は約40 人の大所帯。しかもスポーツ推薦で入学した実力者も揃っていました。それでも西野さんは、「無名高校出身の選手でもコートに立てることを証明したい」と強い意気込みを持って入部しました。しかしそこで、厳しい現実に直面します。

「部員数が多いので、1年生の間はボール拾いや声出しが主な仕事になってしまい、うまくなるどころか、ボールに触る機会が限られてしまっていました」

そんな状況に打ちのめされていたさなか、西野さんはある決断を迫られることになります。関西大学バレーボール連盟に派遣する学連委員を新入生の中から選ぶことになり、西野さんがその委員になることが決まったのです。


大学リーグは学生が自ら運営しており、その運営を行うのが大学連盟。その委員になると、普段は授業が終われば連盟の事務所に行って仕事をこなし、大会当日も朝から晩まで運営業務に追われるため、チームと同じ行動はできません。チームメイトと練習する時間はほとんどなくなり、実質的には選手としてコートに立つ道を断たれたことになります。選手として上を目指そうと入部した西野さんにとっては辛い決断でした。

「話し合いの中で雰囲気的に、『自分しか行く人間がおらへんな』と思って、覚悟を決めて手を挙げました。そう決めた日の夜、下宿先から母に電話しました。うちは裕福な家庭ではなかったんですが、『本気でバレーをして、教員になりたいから、なんとか4年間通わせてほしい』と無理を言って大学に行かせてもらったんです。

にも関わらずそういう形になったので、『ごめん。もう選手としてはコートに立つことがないかもしれへんけど、やれることだけはやるから』と伝えました。すると母は、『わかった。あんたが頑張るって決めたんやったら、それでいいん違う』と。それ以上は何も言われませんでした。その電話の後、泣きながら走りましたね。悔しくて…」

選手として活躍する夢に未練はありましたが、もともと人一倍負けず嫌いな性格。違う道に進むと決まったからにはその道を極めようと、大学連盟の仕事に打ち込み、4年生の時には連盟の学連委員長を務めました。

「連盟での仕事はある意味、仮就職のような感じで、社会に出てから必要とされる素養を学ぶことができました」

大学連盟での経験は、現在の広報という仕事に、そして保健体育の教員を目指したことは、堺ジュニアブレイザーズ監督という仕事に。結果的に大学時代の経験が、現在の仕事につながっています。


選手という立場から、選手をサポートする側に役割を変えた西野さんが、堺ブレイザーズと出会ったきっかけとは。後編に続きます。

文・米虫紀子   写真・大森大

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