【Vol.14】堺ブレイザーズ広報・西野祐司 さん(後編)

地域密着の理念にひかれてブレイザーズの門をたたく

地域密着の理念にひかれてブレイザーズの門をたたく

大学のバレー部で、選手をサポートする仕事に打ち込むようになった西野さんが、堺ブレイザーズと出会ったのは、大学3年生の時でした。

「大学のカリキュラムの中にインターンシップ実習というのがあって、堺ブレイザーズの運営をしている株式会社ブレイザーズスポーツクラブにその受け入れをお願いしたんです。企業スポーツから脱却して、地域密着型のスポーツクラブを目指すという堺ブレイザーズのニュースを目にして、以前から興味を持っていました。インターンシップ期間は、支援者への挨拶、会議への同席、企画立案、寮整理作業等、チーム運営に関わることが主なものでしたが、このチームをさらに深く知りたいと思いました。」

「その後も、堺ブレイザーズのホームゲーム運営のお手伝いに行った時に、サポーターのみなさんの笑顔や、献身的に活動されているスタッフの姿を見て、このチームにほれこんでいきました」

とはいえ、大学に戻れば関西大学バレーボール連盟の学連委員長としての仕事も多く、就職活動は二の次に。西野さんは大学4年の冬を迎えても卒業後の進路が決まっていませんでした。

「忙しいのを言い訳にしてしまっていましたね(苦笑)。もう就職浪人する覚悟でした。そんな時、堺ブレイザーズの当時の監督だった中垣内祐一さんに、『マネージャーとして来てくれないか』というお話をいただき、入社を決断しました。最初入った時は、選手もスタッフも年上の人ばかりでしたから、正直気は使いましたが、イエスマンにだけはならないでおこうと思っていました。言うべきことは言おうと。そのたびに、鼻を折られてましたが(笑)」

「これほど人々の気持ちを動かす場所は他にない」

「これほど人々の気持ちを動かす場所は他にない」

マネージャーになってからは、四六時中、選手やスタッフ、チームのことで頭がいっぱい。練習以外の時間も選手に寄り添い、一緒に食事に行って話を聞くといった毎日でした。

「ブレイザーズに行くからには優勝する」。そんな西野さんの入社当時の目標は、1年目に叶えられます。2005/06シーズンのVリーグで、堺ブレイザーズが優勝したのです。新日鐵ブレイザーズから、クラブチームの堺ブレイザーズとして2000年に再スタートして以来、初の優勝でした。

「優勝が決まった瞬間のボールの軌道や、会場の光景を、今でもはっきり覚えています。ロドリゴ選手がスパイクを打って、それが相手ブロックを弾き飛ばして…。喜んでいるサポーターのみなさんの顔や、涙している姿を見て、『これだけ一喜一憂してもらえる。人々の気持ちを動かす場所は他にないんじゃないかな』と思いました。『このチームでずっと仕事を続けたい』とよりいっそう強く思えるようになった瞬間でした」

入社5年目の09年、西野さんはマネージャーから広報へと転身しました。チームのために働くという面では同じですが、マネージャーと広報では、向くべき方向が違う、と西野さんは考えました。

「マネージャーの時は、チームの勝敗に大きく関わる現場の一員だったので、選手のコンディションやチームスタッフのモチベーションのコントロールといったところに意識を置いて仕事をしていました。でも広報は、主観的ではなく客観的にチームを見なくてはいけません。『第三者からチームがどのように見られているか』という視点が必要です。マネージャーとして現場の近くにいると、発信したいという思いばかり強くなり、周りがどのように受け取るかという視点を持てませんでした。しかし、マネージャーを離れて広報という立場になり、そういうことをより多く考えるようになりました。」

自分と同じ境遇の子供たちを指導する

自分と同じ境遇の子供たちを指導する

同時に、西野さんは、堺ジュニアブレイザーズの監督を任されることになりました。堺市は男子バレー部のある中学校が4校しかなく、中学生になってバレーボールを続けられる、バレーボールを始められる場が少ないのが現状です。そんな中で、堺ジュニアブレイザーズは、バレーボールがしたくても、できる環境がない中学生の受け皿として活動しています。

それは、小中学校にバレー部がなかったため、バレーをしたくてもできなかった西野さん自身の境遇とも重なります。大学進学時に保健体育科の教員免許を取得しようと考えたのも、「自分が中学の教員になって、バレー部の指導もしたい」と思ったから。その時の目標が、思わぬ形で実現することになったのです。

「自然な流れの中で、夢が仕事としてかなえられているというのは、すごく幸せなことだと思っています。一つは、堺ブレイザーズのマネージャーとして日本一になるという夢をかなえられたこと。そして、堺ジュニアブレイザーズの監督として、自分がやりたいと思っていた『指導する』仕事。小中学生時代、バレーに恵まれた環境ではなかった自分が、今、同じ環境にいる中学生の受け皿として活動している。不思議ですけど、無意識にそういう選択をしてきたのかな、とも感じます」

そんな堺ジュニアブレイザーズにも存続の危機がありました。選手の供給源となっていた小学生のバレーボールチームが休部してしまい、堺ジュニアブレイザーズに入る選手が激減。一時は6人にまで落ち込んでしまいました。

堺市の男子バレーの火を消してはいけないと、新たな取り組みに打って出ました。まずは堺市内5区で既に展開していた小学生のバレースクールで、より興味を持った子供たちを再度集めてステップアップを目的にチームとして試合に出場する「ブレイザーズキッズ」を創設しました。そして、中学でもバレーを続けたいという子供たちが、堺ジュニアブレイザーズに入団するようになり、今では部員数が26人にまで戻りました。

「バレーをしたいと思っている子供たちの受け皿をなくすことになりかねなかったので、その時は大変な危機だと感じていました」と西野さんは安堵の表情で振り返ります。

どんな壁にも立ち向かう姿を植え付ける

どんな壁にも立ち向かう姿を植え付ける

監督として、以前は、生徒たちが教えた技術を身に付けたときにやりがいを感じていましたが、今は違うと言います。

「今、ちょうど卒業後の進路の話をしているんですが、『高校行ってもバレーボールやりたいんか?』と聞いた時に、『絶対やります』とはっきり言ってくれた時や、選手たちが自分の考えをちゃんと言葉にして話せるようになったなと感じる瞬間に、やりがいを感じるようになりました。どんな壁があっても、面と向かって立ち向かって行く姿が見えたらいいかなと思うようになりました」

穏やかな“先生”の顔になってそう語る西野さん。最後に、現役部活生にエールを送ってくれました。

「例えばやりたいスポーツに一生懸命取り組める環境がなかったとしても、自分で環境を作っていくことはできると思うんです。『目標を達成するために何とかするんだ』という気持ちがあれば、行動も伴っていきます。それぞれの立場で困難にぶつかることはあると思いますが、諦めずになんとかするという気持ちを持ってやっていけば、何かしらの形にはなると思うし、その時の喜びはひとしおなので、それに向けて頑張ってほしいですね」

部員が5人になっても、自分から行動を起こして部員を集め、試合出場を果たした高校時代。
選手としてコートに立つことを諦めざるを得なくなっても、投げやりになることなく、
新しい役割を極めようと力を尽くした大学時代。
どんな立場に追い込まれても、諦めず、手を抜かずに、その時できることをやりぬく姿勢が、
その後の夢の実現に西野さんを導いたのではないでしょうか。
将来の道を切り開くのは、自分自身なのです。

文・米虫紀子   写真・大森大

特設サイト

プライバシーマーク