【Vol.3】牧野講平トレーナー(前編)

牧野 講平(まきの こうへい)

牧野 講平(まきの こうへい)

【トレーナー】

森永製菓株式会社マーケティング本部/ウイダーマーケティング本部トレーニングラボ ヘッド・パフォーマンススペシャリスト。
北海道札幌市出身。中高と陸上競技のハードルの選手として札幌市の大会で優勝するなど活躍。高校卒業と同時にトレーナーの勉強のために渡米。帰国後に森永製菓に就職し、現職に従事。浅田真央選手らトップアスリートの活躍を陰で支える、日本のトップトレーナーの一人。

トレーナーが味わう、選手とともに闘える充実感

トレーナーが味わう、選手とともに闘える充実感

今年開催されたソチ五輪でも、フィギュアスケートの浅田真央選手や、スキージャンプの高梨沙羅選手といったトップアスリートたちが世界の大舞台で活躍し、観ている者を魅了してくれました。

しかし、彼・彼女らは決して一人で闘っているわけではありません。チームとして戦略を組み、勝つ可能性を最大限に引き上げていく――チームの一員として選手たちのコンディショニング面、そして、ときにはメンタル面のサポートもするのがトレーナーという職業です。

「アスリートが成功するための教科書などありません。選手も、支えるトレーナーも、試行錯誤をしながら、これが正解だと思うものを信じて突き進み、成功を勝ち取っていく。第一線で活躍する選手たちとともに闘っているという充実感が得られるのが、トレーナーという職業の醍醐味だと思います」

そう語るのは、トップアスリートを支えるトレーナーの牧野講平さんです。スポーツ選手の息づかいを身近に感じながら夢に向かってともに闘える。それがトレーナーという職業です。

牧野さんがトレーナーという職業に憧れたのは小学生のときでした。

「父とあるテレビ番組を見ていたとき、あるトレーナーさんがアメリカで活躍する姿を紹介していたのです。父に『こんな仕事もあるけど、やってみるか?』と言われて、やってみたいな、と思ったのがきっかけです」

それから牧野さんは、なんとたったの一度もぶれることなくトレーナーという夢に向かって突き進んでいきます。牧野さんがその夢をつかみ、第一線のトレーナーになるまでの過程にじっくり耳を傾けると、一度スイッチが入ったら目標に向かってとことん突き進んでいく――そんな牧野さんの強い信念と行動力をまざまざと感じることができました。

生活態度を正された恩師との出会い

生活態度を正された恩師との出会い

牧野さんのスポーツとの出会いは小学生のとき。

「サードとピッチャーを兼任する野球少年でしたが、当時は練習中に水も飲んではいけないという時代。いま思えばひどい練習環境のなかでやっていましたね。それで肘を壊してしまったので、中学生になったときに、オーバーハンドのスポーツをやるのは難しいと思って、友だちに誘われるままに陸上部を選択しました」

もともと身体能力が高かった牧野さん。中学1年生のときに札幌市の大会で110メートルハードルに出場して優勝を果たします。

「それでも、まだ友だちと遊びたいという気持ちもどこかにあって本当の意味で練習に身が入っていたとは言えない時期だったと思います。そういう意味でも、中学2年生のときに出会った陸上部の先生は印象深く覚えています。練習の細かい技術的な指導を受けた記憶はあまりないのですが、僕の普段の生活態度について厳しく指導された記憶があります。ずっと怒られていた記憶しかないですけど(笑)、僕の恩師といえる存在です」

中学2年生の秋の新人戦でも札幌市の大会で優勝。年を越して迎えた春の大会でも当然のように優勝できるだろうと思っていた牧野さんは、優勝を果たせずに初めて挫折を味わいます。

「レースが終わった直後のトラックの片隅で、先生に『お前の生活態度がなっていないからだ!』とこっぴどく叱られたのをよく覚えています。当時、僕は札幌の代表選手として選抜チームにも参加していたので、周りに知っている先生たちもいるし、知っている選手もたくさんいる前で叱られてしまい……。本当に悔しかった気持ちがありました。あのときに、このままではダメだ、と心を入れ替えることができました」

高校卒業と同時にトレーナーになるために渡米

高校卒業と同時にトレーナーになるために渡米

心機一転。練習に臨む姿勢を改めると、再び札幌市で優勝。北海道大会でも4位まで成長することができた牧野さん。

「練習で同じメニューをやるにしても、先生にやらされてやるのと、このメニューをやったら自分は絶対に速くなるんだ! と自分から練習するのとでは全然違うと思いました。先生は以前から練習に対する態度を口酸っぱく指摘してくれていたのですが、その大切を学んだのがあのときでしたね」

高校でもハードルの選手として活躍した牧野さんは、卒業と同時にずっと夢見ていたトレーナーの勉強をするためにアメリカに渡る決意をします。英語がまったく話せなかった牧野さんはまず語学学校に入学しますが、本人も認める「楽観的な性格」がわざわいして、アメリカ生活をのんびりと謳歌してしまい、英語の習得もままならない生活を送ってしまったといいます。 転機となったのは2001年9月、アメリカで起きたテロでした。

「あのとき僕は日本に一時期帰国していたのですが、再度アメリカに渡ろうとしたときに空港で身体中を調べつくされるなど物々しい雰囲気のなかで再入国することになったんです。その厳戒態勢の緊張感と比べたときに、のんびりしている自分自身に対して、自分はアメリカで何をやっているんだ、と危機感を覚えてようやく生活態度を見直すことにしたのです。中学生のときのように、再び、自分自身に鞭が入ったという感じでした」

衝撃だったアメリカという国のスケールの大きさ

それからアメリカの大学に入学した牧野さんは、昼夜を問わずトレーナーの勉強に励むようになります。そこで大事な出会いがありました。

「僕の大学にNFLのトップアスリートたちが合宿のために毎年やってきていたのですが、トレーナーとして帯同するチャンスをもらったんです。彼らは2メートルの巨大な身体ながら100メートルを10秒台で走るし、ベンチプレスも100キロなんてウォーミングアップ、300キロ以上を持ち上げてしまう。間近に接してみて、スケールがまったく違うなと感じたし、これはすごいと衝撃を受けたんです。あのときに、自分は絶対にトップアスリートのトレーナーになろう、と心に決めました」

牧野さんはアメリカでの生活をこう振り返ります。

「自分自身の世界観がかなり広がったと思います。日本と、世界の、物事をみる物差しを二つ手に入れることができて、世界が、自分が想像していたイメージには到底収まり切らないものだと気づくことができました」

その後日本に帰国した牧野さんは、やがてトップアスリートのトレーナーとして活躍を始めます。
そこで感じたこととは? 部活動生へのアドバイスは? 後編へ続きます。

企画・株式会社イースリー 文・鈴木康浩 写真・田川秀之

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